それにしても、若草の寺とは、このいたわりのある心優しい名を、
いつだれがつけておいてくれたのであろうか。
そのむかし、この寺の塔のうちにこもって、一族もろとも妃も幼い王子たちも、
みずから首をくくって相い果てた山背大兄王はじめ二十数人の聖徳太子一族の、
その非業の最期をおもうにつけても、 その可憐な廃寺の名まえが、いかにも愛しい。

聖徳太子の薨じられたあと、再度にわたる皇位継承問題をめぐって、
飛鳥の蘇我蝦夷・入鹿父子と斑鳩の上宮王家山背大兄王との間には、
解きがたい確執が生じていたが、皇極二年 (643)、
入鹿は突如として兵をさしむけ、たちまち斑鳩宮に火を放ってしまう。

山背大兄王は、一族の妃妾・子弟たちとともにいったんは難を生駒山に避けたが、
やがて山を下って斑鳩寺に入り、入鹿の軍兵に囲まれながら、
塔中にあって粛然としてみずからの死をえらんだのであった。

かくしてここに、聖徳太子薨後わずか二十二年にして、太子の一族は断絶し、
太子建立の斑鳩寺も、あたかも斑鳩宮の悲劇を追いでもするかのように、
太子薨後五十年を出ずしてやがて灰燼に帰してしまう。
すべてがむなしく滅びさったかにみえるとき、私に想起されるのは、
山背大兄王の死に臨んでの最後の言葉である。

「われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。
しかあれど一つの身のゆえによりて、
百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。
このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん」
(「皇極紀」二年の条)

山背大兄王には、上宮王家に隷属する乳部の民を中心に兵を起こす手だては、
なお残されていたはずである。
現に難を避けて隠れていた生駒山中で、大兄王は三輪文屋君から、
さらに東国にのがれて挙兵することをすすめられている。
しかし大兄王は、わが一身のために肉親をうしなう多くの民のかなしみを、
惻々としておもわざるをえなかったのである。
大兄王は挙兵のすすめをしりぞけ、山を下りていった。

私には、このとき、山を下りていった大兄王ら太子一族のひとりひとりの姿に、
かつてゴルゴタの丘へ向かって、
みずからの肩に十字架の重みをになってよろめき歩いたそのひとに似かよう
殉教者の姿をみないわけにはいかないのである。
それはまさしく文字どおりの犠牲であり殉教であった。
おそらくわが国ではじめて、みずからの死をもってあがなわれた
精神的価値のための自己放棄であった。
私は山背大兄王ら聖徳太子一族の悲劇の上に、
太子の遺訓、すなわち三宝に対する絶対帰依の精神、
わけても太子の捨身の精神、民に対する慈愛のこころの
脈々と生き続けているのをみないわけにはいないのである。

太子は自著である『勝鬘経義疏』のなかで
正法を摂受するめに、身体・生命・財産の三つを捨てなければならぬ、
という勝鬘夫人の大誓願に対してみずから注して
「いま曰く、捨命と捨身とは皆是れ死なり」
とひときわ語気をつよめてのべておられるが、私には、
皆是れ死なり、
という太子の信仰告白の言葉の絶体絶命の重みが、
いまさらながらにおもわれてならないのである。

法隆寺炎上のあと、一時は寺地すら定めかねるほどに茫然自失して
人びとも四散せざるをえなかった法隆寺の再建工事が、
その後朝廷の格別の庇護もなしに、ただ聖徳太子の遺徳を慕う、
それこそ野にある太子由縁の百姓たちによってひたすらに進められていったのも、
けっして理由のないことではなかったのである。
山背大兄王ら太子一族の悲劇は、目を覆わしめる悲惨な事件ではあったが、
その悲惨さをとおしてはじめて
太子の信仰は滅しようのない証しをえることになったともいいうるのである。
法隆寺炎上もまた、その瞬時の出来事のあまりの痛ましさゆえに、
かえって太子へのおもいを、そしてほとけへの絶対帰依を
不安と恐怖のうちにも赫々と燃え上がらせてゆくことになるのである。
あえて誤解されるのを恐れずにいえば、私には、法隆寺炎上すらも
みほとけの宏大無量のはからいのようにおもわれてならないのである。
事実、法隆寺炎上を契機として、太子信仰の火は、異常なほどの激しさで
名もなき民のこころにまで燃えさかってゆくことになるのである。
法隆寺の再建は、そうした太子信仰のはげしい燃え上がりのなかで
進められていったことを、私たちはゆめ忘れてはならないであろう。

今日、信仰上の理由からであれ、法隆寺の再建を認めることをいなむ気持ちが
いくらかでも私たちのこころのうちに残っているとすれば、それは
かならずしも妥当ではないようにおもわれる。なぜならば、
この世にあるものはすべて滅し去るものとすれば、それにもかかわらず、
なお不死鳥 (フェニックス) のように、灰燼のなかから新たないのちをえて
よみがえった法隆寺こそ、そして何よりも
いまもなお太子御在世以来の法灯をまもり続けているこの大いなる事実こそ、
聖徳太子の信仰のなによりの証しであり、
みほとけのかたじけなさというべきもののようにおもわれるからである。

「夏四月の癸卯の朔壬申に、
夜半之後に、
法隆寺に災けり。
一屋も余ること無し。
大雨ふり雷震る」

私には、「天智紀」九年の法隆寺罹災のこの一条が、
新たな感慨をもっておもいおこされてならないのである。


( 上原和 『聖徳太子』 (講談社学術文庫) p. 30--35 )