漢字文化圏にあっては、字が中心であり、
それをどのように声にするかとなると、じつは音も訓みもどちらでもいい。
ひとの姓名についても、文字をまちがうと不愉快がられるが、
音や訓みをまちがったところで、さほどに失礼にはならないのである。

だから、中国人の姓名も韓国・朝鮮人の姓名も、日本人が、
隋・唐以前の百斉音 (呉音) で音じてもよく、 唐の長安の音 (漢音) で音じてもいい。
「現代中国音で音じよ」
というような中国人はひとりもいない。中国人は、
漢字の音がどういうものかということをよく知っているからである。

日本の九州に住む牧師の崔さんが、
--- 日本で放送される韓国人の姓名は韓国音でよむべきだ。
として訴訟にまでもちこまれた。
これは、漢字の本質や漢字文化圏のながい伝統からとびはなれすぎた考え方で、
漢字の本質をよく知っていた李氏朝鮮のころの知識人なら
そういうことを言わなかったにちがいない。

むろん、韓国・朝鮮の姓名の表記が、表音文字に変ってしまえば、べつである。
韓国・朝鮮ともに漢字が制限され、 文章はハングルというすぐれた表音文字で書かれているが、
しかし人の姓名の表記はなお漢字である以上、
地方地方 ( 中国とか日本とか ) の音でよんでいいのである。


( 司馬遼太郎 『耽羅紀行』 (朝日文庫) p.45 )


田口註: 現在では姓名もハングル表記が多くなつてゐるやうな気がする。