だが真昼から午後三時までのむし暑い空に太陽は雲にかくれ、
あたりはうす暗くなったが (マタイ、二十七ノ四十五)、
奇蹟は何一つとして起らなかった。
時間は永遠のようにとまり、
イエスは全くの無抵抗で、
もはや口を開く力さえ失って十字架の上で身じろがなかった。

午後三時、彼は突然小鳥のように首垂れていた頭をあげて叫ばれた。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ (主よ、主よ。なんぞ我を見棄てたまうや)」
それは詩篇二十二篇のはじめの一句である。

多くの人々はこのイエスの言葉から彼の絶望を読みとろうとする。
この十字架上での彼に救いの手一つさしのべず、
奇蹟ひとつ起さなかった父なる神にたいする悲しみと訴え、
絶望と哀訴とをそこに見つけようとする。
そしてそこにイエスの悲劇と崇高さをあわせて見つけようとする。

しかし、私はこの考えには反対なのだ。
反対の理由の一つは先に既に少し触れておいた。
当時、磔刑者はさまざまな祈りを処刑場で口にしたが、
その全文を記録する必要はなかった。
冒頭の一句さえ書いておけば、
その祈りの続きを暗記している当時のユダヤ人は
すべてをそこから読みとることができたからである。

詩篇二十二篇は
「主よ、主よ。なんぞ我を見棄てたまうや」 の悲みの訴えから始まる。
そしてその訴えは自分が虐げられることを語りながら、なお
「わたしは汝のみ名を告げ …… 人々のなかで汝をほめたたえん」
という神の讃歌に転調していくのである。
つまり詩篇二十二篇は決して絶望の詩ではなく、
主を讃美する詩なのである。

イエスがながい沈黙の後に、突然、頭をあげて、
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」
と叫んだ時、
それはその句限りの絶望の言葉だったのか、それとも
詩篇二十二篇全体のなかに現在の自分の心を見つけようとされたのか、
問題はどちらかになる。

だが、もし、それが前者ならば、
その直後イエスは「我、渇く」と 詩篇の祈りの一句を跡切れ跡切れに言われた後に
「主よ、我が魂をみ手に委ねたてまつる」
と更に詩篇三十一篇の言葉を呟かれた気持とをどう結びつけるのか。

主よ、我が魂をみ手に托したてまつるとは 絶対的信頼の表現である。
直前の絶望の言葉がこの絶対的信頼にすぐ結びつくとは 私にはどうしても考えられぬ。
したがってイエスの
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」
は詩篇二十二篇全体に現在の自分の心を追いながら、

我 わが魂をみ手に委ねたてまつる
主よ まことの神よ
汝は我をあがなわれたり

の詩篇三十一篇の句に転調していったのである。


( 遠藤周作 『イエスの生涯』 (新潮文庫) pp.183-185 )