遠山啓 『無限と連続』 (岩波新書)

( 「はしがき」より )

正確さや厳密さを強調しようとするとき、 ふつう「数学的」という形容詞が用いられている。
そしてこの形容詞はいっさいの人間的なものを無視して、 その論理を貫いていくところの、
固くいかめしいあるものを意味しているように思える。
「数学的」というこの言葉は、たいていの場合、 尊敬とともに恐れをもって、
ある場合には明らかな嫌悪をもって口にされている。
数学という学問はおよそ そのようなものとして了解されているらしい。

たしかに、論理的な正確さや厳密さが、
数学として欠くことのできない一つの性格であることには疑いの余地がない。
だが、数学のなかにはそれ以外のいかなる要素も存在しないのだろうか。
数学者は論理という鉄仮面のなかに閉じこめられた哀れな囚人にすぎないのだろうか。

原始物理学者は数学の力をかりて原子核のなかまでもぐりこむことができたし、また
天文学者は数学の翼にのって星雲のかなたまで飛行することができた。
それならば、鉄の仮面のように頑なものが どうして原子核のなかまで入りこむことができたであろうか。
また鉄の仮面のように重々しいものが どうして星雲の向う側まで軽々と飛んでいけるのだろうか。

「数学の本質は自由性のなかにある。」
これは集合論の創始者カントールの有名な言葉である。 同時にまた偉大な日本人の数学者
関孝和 (1642--1708) がみずから「自由亭」と号していたことが思い起こされる。

むしろ非論理性のなかにだけありそうに思われる自由が、 どうして論理性と両立するのだろうか。
「数学的自由」などという言葉は 丸い三角形というほどにも不合理な言葉ではないだろうか。

この小さい本はこのことを念頭において書かれた、いわば「数学者の弁明」である。
弁明であるから 数学者にしかわからない数式はできるだけ使わないことにしたつもりである。
たしかに、数式を使わないで数学を説明することは、
音符を使わないで音楽を説明するよりはるかにむつかしいことであろう。
しかし、音符が読めなくても、 感受性さえあればすぐれた音楽の鑑賞家にはなれるはずである。
たとえ、作曲家や演奏家にはなれないにしても ……。
まったく同じように、 数式なしで数学を「鑑賞する」ことはできないだろうか。
筆者はこんな乱暴きわまる類推を頼りにし、
ひたすら読者の知的感受性をあてにしながら、この「弁明」をつづった。

5千年の昔に生まれ、高く、広く、深く、
すでに手に負えないほどの発展をとげている現代数学を要約することなど、
初めからできない相談である。 ましてやこの小さい本などのよくするところではない。

けれども、 次のことが筆者を勇気づけてくれた。 植物が成長するとき、
幹や枝や葉がますます複雑に分化して上へ上へと発展してゆくのと相並んで、
根がますます地中に入っていって下へ下へとのびてゆく発展とがあるはずである。
下への発展においては、 複雑化よりはむしろ単純化の方が主導的になってくる。
筆者は主としてこの方向への発展をとらえて、 そこに使われている論理を、できるだけ平易に、
高速度写真をゆっり映すような方式で読者の前にくりひろげようと思った。

… (中略) …

弁明として書かれたこのささやかな本が「数学への招待」として役立つこと、
これこそだいそれた野望には違いないが、 これはまた筆者の心ひそかな願いでもある。


目次

第1章 無限を数える
第2章 「もの」と「働き」
第3章 創られた空間
第4章 初めに群ありき