小平 邦彦 (編) 『数学の学び方』 (岩波講座 基礎数学)


はしがき ( 小平 邦彦 )
数学しながら学ぶ ( 飯高 茂 )
"いいかえ流" 勉強法 ( 岩堀 慶長 )
数学の帰納的な発展 ( 河田 敬義 )
数学に王道なし ( 小平 邦彦 )
暗記のすすめ ( 小松 彦三郎 )
論理を追う前にイメージを持て ( 田村 一郎 )
数学事始 ( 服部 晶夫 )
数学および諸科学での応用に向けて ( 藤田 宏 )


はしがき

この小冊子は岩波講座『基礎数学』の編集に携わった 8名の執筆者が めいめいの経験に基づいて '数学の学び方' を述べたものである。 '学ぶ' は 'まねぶ' であって、その第一義は 'まねをすること' である。 幼時は大人の真似をして繰返し片言でしゃべることによって言葉を憶えるのであって、 幼児が言葉を学ぶのは正に 'まねぶ' のである。 数学を学ぶものも 'まねぶ' ことからはじめるのであろうが、 数学は学んだことを理解しなければならない。 ここに数学の難かしさがある。 '数学の学び方' はもちろん '数学を学んで理解する仕方' という意味である。 それでは 学んだ数学を理解するというのは どういうことか。 数学がわかったというのは どういう心理的状況を指すのか。 これをはっきり規定するのは極めて難かしい。 それは数学者でも、 数学を理解するのが どういうことなのか、が人により、 また同じ人でも状況により、少しずつ違うからであろう。 この辺の事情は この小冊子の 8通りの数学の学び方を通読されれば おわかり戴けると思う。 これから数学を学ばれる方は 学ぶにしたがってめいめい 固有の理解力を養って行かれる訳であるが、 その際にこの小冊子が少しでも参考になれば幸である。

     1987年5月24日
                                     小 平 邦 彦

数学の持つ鋭い魅力は人に伝えようとしてできるものではない。 数学は面白いから面白いのであって、 説明す必要など少しもないのである。 数学の魅力を伝えようとしてかに数学が世に役立っているかを力説してみても、 それではちっとも面白さが分からない。 (p.3)


"いいかえ流" 勉強法

数学の学び方といっても種々ある筈である。
分野に応じて自分の個性にうまく合うような仕方を苦心して、もしうまく行くと、
分りにくかった事項がいつのまにか分ってしまうこともある。
(なかなかうまく行かぬこともあるけれども。)

そこで与えられた問題をいいかえて別の形に直すことを先ず試みてみる。
いくつもの形にいいかえられることもあるし、 ななか別の形に直せないこともある。
しかしうまく自分と相性のよい形に直せると、興味も深まり、
少し実験を繰り返しているうちに問題が解けて、 充足した満足感が味わえることになる。
問題を解くだけでなく、数学の本を読んでいる時にも分らない所へ来たら、
自分流のいいかえを試みているうちに 難点を突破できることもよく起ることである。

これらの "いいかえ流" の解決法の実例を以下にすこし述べて、 読者の参考に供したい。 (p. 23)


数学の帰納的な発展 --- Gauss の楕円函数論 --- ... 高木先生は阪大数学教室での講演などで、 "学生諸君は早くから、三つの A (解析、代数、数論) と幾何というような 古典的分類にとらわれず、 近代的な考え方、すなわち a (抽象的数学) を身につけるのがよい" という主旨のことを話された。 ... そしてわれわれ学生の多くは、高木先生の示唆に従った。 そこでは抽象的数学は、多くは公理系より出発して、 演繹的体系をとることになる。 演繹的体系は、 古くは Euclid の "幾何学原論" 以来の数学学習の体系であるが、 Newton の天体運動を初め、 数学の重要な発見や進歩は帰納的方法によるものである。 数学の学習は演繹的方法によるが、 数学の発見は帰納的方法によるというのは、 一種の二律背反である。 学校の授業にも講義と演習とがある。 この講座『基礎数学』の各項目は、 近代的手法をなるべく有効にすみやかに伝える主旨のものが多く、 私が学校で学んだような古典的数学について述べることが少ない。 高木先生は学生に対して上記のような講演をされたが、 自らは楕円関数の虚数乗法論より出発して、 帰納的な道を辿って 1920年に美事 "類体論" の構成に成功されたのである。 高木先生の著わされた『近世数学史談』(1931年) は 19世紀前半の数学史で広く読まれたが、 その中で次のように述べておられる。 "ガウスが進んだ道は即ち数学の進む道である。 その道は帰納的である。 特殊から一般へ! それが標語である。 それは凡て実質的なる学問に於て必要なる条件であらねばならない。 数学が演繹的であるというが、 それは既成数学の修行にのみ通用するのである。 自然科学に於ても一つの学説が出来てまえば、その学説に基づいて演繹をする。 しかし論理は当り前なのだから、 演繹のみから新しい物は何も出て来ないのが当り前であろう。 若しも学問が演繹のみにたよるならば、 その学問は小さな環の上を永遠に周期的に廻転する外はないのであろう。 我々は空虚なる一般論に捉われないで、 帰納の一途に精進すべきではあるまいか。" (p.57) 本講座の読者諸氏は、最もモダーンな手法を学ばれるのであるから、 それの一つの補いとして 帰納的な数学発展とはどんなものであるかについてここで説明しよう。 その一例として、 高木先生が『近世数学史談』で示された Gauss による楕円関数発見の糸口について述べることにする。 それは Gauss が 19歳から 21歳にかけて行った研究である。 (pp. 45--46)


数学に王道なし



8. おわりに

これまで、関係式 (1)
exp(iθ) = cosθ + i sinθ
を出発点として、それにまつわる題材を軸に、 数学における典型的な考え方の一端を紹介した。
また、はじめに述べたことと関連して、 明晰に考えることの見本も述べたつもりである。

話は数学からそれるが、何かものを習い始めるとき、
先達から要領やこつを教わることは非常に有効であり、
そうでないのと較べると能率のよさには格段の差がある。
筆者は年をとってからスキーを始めようと思いたったが、
若い人達とスキー学校で肩を並べるのはてれくさく、 ほぼ独力で滑り始めたところ、
2日目に曲るべきところで曲がりきれずに脚の骨を折るという苦い経験をした。
まさに生兵法は怪我の元という諺を地で行く結果である。

しかし、いくらこつを教えられても、
それを身につけるのにはまた別の努力や感覚が必要なことも明らかであう。
筆者はかつて渓流のやまめ釣りに挑戦したことがある。
そのときは名人ともいうべき友人が同行していて、 最初にあれこれと細かく注意を与えてくれた。
2時間ほどの試行の結果は、ほとんど同じ場所にもかかわらず、
友人が 5匹を上廻る釣果でこちらは零であった。
そのときの友人の言葉は印象的であった。
「同じ川の同じ場所のあありを日や時間を変えて何度でも当ってみろ。
そのうちにきっと魚とのなじみができてくる。
そうすれば、そよの川へ行っても いくらでも応用がきくようになる。」
この言葉は数学 (やその他の学問) の学習にも一脈通ずるものであろう。
要は、本人の研鑽の努力ここが最善で最後の極め手である。
(p.159--160)